media arts lab + SCU

制作主体

死考と弔いを醸成する空間 かれたとて、いま

研究背景

皆さんは「墓地」「葬送」といった「死」に関する言葉にどのようなイメージを持っていますか?

死について考える際、悲しい、怖いといったマイナスな感情があることは否定できません。しかし、死という平等に訪れる人生の最後があるからこそ、日々が特別だと思えます。

こういった考えは、古くから世界に存在し、仏教では死を観察する「死隋念」やラテン語で死を想えという意味の「メメント・モリ」が挙げられます。この死を前向きに受け入れてゆく思考を「死を考える」と書いて死考と呼びます。

私は、この「死考」を行う機会をもっと日々に取り入れるべきではないかと考えています。

また、核家族化や都市化が進む現在、死の問題が大きくなってきています。

先祖のお墓を移動させる改葬や墓を閉じる墓じまいを選択する人々が増え、お墓のあり方が変化しています。一方、何年もお参りの形跡のない無縁墓や引き取り手のない無縁遺骨の増加も問題にあがります。

これは、弔いが血縁関係者といった個人の役割となったために負担が大きくなり、起こった問題です。これまでの日本社会では、「村」という共同体によって集団的な、そして、持続的な弔いが可能でした。

「村」が失われた今、社会全体で、新しい持続可能な弔いの方法を考えてゆく必要があります。

  • 死考とは
  • 弔いとは
  • 死の問題

死考と弔いを醸成する空間「かれたとて、いま」

私は、この「死と向き合う機会をもたらすこと」と「新しい持続可能な弔いを考案すること」を目指し、死考と弔いを醸成する空間「かれたとて、いま」を提案します。

鳥取県青島という実在する場所に空間をビジュアライズすることで、鑑賞者はリアルに「新しい弔いの場」を想像することができます。

この提案は、今後、死の問題を自分のこととして、社会全体のこととして認識し、一緒に考えていくための問いを提示するデザインです。

  • 「かれたとて、いま」全体マップ

新しい葬送「かれたとて」

マップに描かれている、カプセルはコンポストになっており、遺体を堆肥に変換します。この遺体からできた堆肥によって、人々は島の棚畑で花を育てます。堆肥となり、死者は無個性化しますが、代わりに生前に選んだ「花」が個人の象徴として存在を続け、受け継がれてゆくのです。

この花に関わる方法は2通りあります。

まず、「弔い」を目的としたコミュニティ「いま」として、花のお世話をすることです。家族や友達とは違う形で、生前から「死後」を意識し、弔いの仲間として、交流を深めることができます。

また、この島から離れている家族は、花の種を故人の象徴として、受け継いでゆくことができます。ライフスタイルが変わり、住む土地が変わったとしても、新たな場所で花をまた咲かせれば、そこが新たな供養の場となるのです。

遺体から花へと生命の循環を果たし、そこに関わるコミュニティを生成することで集団的弔いの循環を。そして、種という可動的なもので個人的な弔いの循環を目指します。

  • 新しい葬送「かれたとて」

葬送システムに関連する建造物

こういった新しい葬送に関わるカプセルを空間全体に配置することで、訪問者に「死考」や「弔い」を促すことができます。カプセルの他にも、橋、斎場、広場、支度庵、礼拝堂と五つの建造物を構想しました。

この建造物は、葬送システムの一連の流れに沿って配置されています。また、ゾーニングや形状は日本人の死生観を基盤に構想しました。

  • 1-渡り橋

橋は、神話や伝承に度々登場し、「あの世」と「この世」を結ぶ象徴性を持ちます。
そのため、青島へのアプローチに設定しました。

  • 2-斎場

斎場の壁はガラス張りになっており、閉鎖的な葬儀に公共性を持たせます。
このことにより、空間を訪れた人々も葬儀の様子を見ることができ、「死考」を日常に取り込めます。

  • 3-広場

斎場の奥に位置する広場です。葬儀を終え、ここから死者の旅路が始まっていきます。

  • 4-支度庵

広場をぬけると、支度庵が村のように立ち並びます。

ここは、遺体の堆肥化の準備の部屋となっています。斎場が公共的な空間であった一方、支度庵では私的な、家族や友人との最後の別れの空間となっています。

周りには、遺体からできた堆肥によって花を育てる棚畑が広がります。葬送のシステムが空間全体に溶け込み、弔いを促します。

  • 5-礼拝堂の外観
  • 5-礼拝堂の内観

礼拝堂は、祈りや供養の象徴として存在します。

堆肥となり、そして、花となった死者を「ここに眠る人々」という大きな枠組みで祈る場所です。
死者全体を弔う礼拝堂の存在により、葬送や墓地に関係なく、日常として空間を訪れた人々も弔いに参加できます。

礼拝堂の内部には、「かれたとて」で育つ花々の象徴として、楠が育ち、時の流れを感じさせます。

まとめ

このように、「かれたとて、いま」は死考と弔いの未来の可能性を示しています。

死考をどう自分に取り入れるか、そして、弔いをどう継続してゆくか、そのための空間をどう作ってゆくか、この提案を通し、全員で考えていけたら幸いです。

「死考」や「弔い」は本来、日常の中に存在しているものです。本研究も社会学や民俗学といった学問からアニメや音楽、散歩や食事まで全てものから影響を受けています。

死の問題は身近な、自身、そして、社会の問題なのです。